西アフリカにおける人権活動、講演会を開催しました!

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以下はティムボールズ氏の講演記録です。

 

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もともとはアフリカに1週間だけ行ったのがきっかけでした。

写真を撮ってLA(ロサンゼルス)の私の弁護士のオフィスに飾っていました。「アフリカ行ったよー、みてみて」とか顧客に言ってね。

 

ところがあるとき私が所属するNGO団体のユース・フォー・ヒューマンライツ インターナショナルの会合がLA(ロサンゼルス)で行われ参加者を空港に迎えにいったら、アフリカのリベリア出身のジョセフ君に会いました。体重が45kgくらいしかなくて、まるで難民のようでした。ヘッドバンドをして、短パンにサンダルでした。

 

そして、彼から直接向こうでの話しを聞いて、私の人生が変わりました。

 

彼の国はもともと内戦を10年以上やっていて、彼の村ではそこまで被害は及んでいなかったんですが、ある日突然銃撃戦が始まり、彼は父と弟二人と歩いて逃げました。彼は母親をそこで見失ったようです。何も食べ物もなく、とにかく兵士などに見つかると殺されるので、草の茂みにしゃがんで隠れたりして、2日間かけて国境まで行きました。そこまで行くと、若干12歳の将軍がいて、銃をもってチェックをしていました。自分たちと同じ民族・宗教などでなければその場で即、射殺され、そこでパスしたらシオラレオネにいけるというわけです。

 

ジョセフの父が彼にひそひそと言いました。

 

「キリスト教の名前に変えろ。」

 

彼はセク―というのが元々の名前だったんです。

それで、彼はお父さんに「なぜ?」と言いました。

 

「本当の名前言ったらみんな殺されてるから」と内緒話のようにひそひそと父は言いました。

彼は当時11歳で、それ以降彼はジョセフと名乗っています。

 

その12歳の将軍は彼とほとんど同年齢でした。俗にいう少年兵です。その少年が20歳前後の兵士たちを部下として使っていました。

彼が将軍に選ばれたのは何故でしょう?たんにそれは彼が最も恐ろしい殺し屋だったためです。

「どこの家か?どこの宗教か?民族は?」などと質問され、彼らと違えば目の前で殺されました。

 

結局ジョセフは、安全に通過しましたが、これらのことは脳裏に焼きつきました。

 

他の親戚は目の前で殺されたのに、なぜ彼は復讐に時間を使わないのか?

 

それが私にはすごく不思議だったのです。

 

これらのことは私にとってすごく印象的でした。そして、ジョセフは1週間後にまた私に声をかけ尋ねました。

 

「(自分の祖国を)助けてくれないか?」

 

私は心の中で「おいおい、俺は単なるLAの弁護士だよ」と思いました。

 

計画だけでは1週間アフリカに行くだけだったのですが、「間違ったことは何もしないこと」だと思って、私はそう尋ねられたとき「YES」と答えました。でも何か意味のある答えではありませんでした。

 

そして、私は2006年にリベリアに初めて行きました。13年間内戦をしていた国で、350万のもともとの人口が3万人になっていました。

 

行くと、1500人のUN PEACE KEEPER(国連平和維持軍)がいて、空港から町の中心部まで5か所の関所が、鉄格子や装備でかためられていました。

 

貧困は想像を超えていて、首都のモンロビアでは電気も、水道もないので、ガス・ジェネレーターで電気を起こし、大きなプラスチック容器に水が入っていて、人々は手押し車で水を運んでいました。

 

そこにいた人々は、まるで爆弾が落ちた後のような完全なショック状態でした。しかし、一方でジョセフには20代くらいの友人がいて、彼らはとても何かをしたいという意気込みがありました。

 

そこで私が所属する人権のNGO団体であるユース・フォー・ヒューマンライツのDVDを見せました。

 

高校生にも見せました。彼らには3つの特徴がみられました。

 

1.人権という考えにみんな希望をもっていて、他の学校に行って、他の子にみせたり、と意気込みと興味を持っている。

 

2.国連に対しては厳しく考えていて、物資とかは来ていたが、国連はただUNと書かれた車が行き来するのを見ていただけで、自分には関係がないと考えている。

 

3.競争、コンテストが大好きである。

 

 ある日35人くらいの若者がいて、「1日中ビデオはつまらない」、「何かコンテストをやろう。」などと不平を言ったので

国連のグループをひとつ選んで、そのグループはどういう目的であるか、成果は何か、機能しているのか?

もしなければその解決策は?

など討論するディスカッションをしました。

 

そして、その解決策は、ユースフォーヒューマンライツのDVDをできるだけ学校に見せにいくというものでした。

 

「じゃーまた7月(3カ月後)に帰ってくるからその時イベントを開いておくれ」

 

と頼みました。これを3年続けたところで、国際サイエントロジスト協会が資金提供をしてくれ、さらに2年続けました。

 

そして、これによって学校を回れる資金もある、ビデオを上映できる体制が整っていきました。

 

それで、またコンテストです。

 

最初は学校対抗でやっていましたが、勝った負けたで揉めたりするので、

次にリーダーシップコンテストというのを開催しました。

 

これは、人権侵害のテーマを選んで、政府の汚職などを討論するものでした。そして実際にそれを調査して高校生がその事件を見つけてきたりしました。

 

ある別の例では18歳の子が「社会にはびこる暴力」というドキュメンタリーフィルムを作ったりもしました。このように、人々が動いてくれるようなキャンペーンを考えるなど教育における工夫をこらすことが、マジックとして機能したと思います。

 

国連の世界人権宣言は、1948年世界大戦の3年後に定められました。

宣言文は、何百万人もの人が亡くなって、人間という尊い尊厳をいかに守るか、いかに未来の戦争を防ぐか、という目的で歴史上初めて合意という形で定められました。

 

しかし現実はそうではないというものです。

 

人権侵害は、世界中日々起こっていますし、リベリアの若者は人権侵害というのがどういうものか、肌で知っています。

 

個人的な戦争の経験がない人がいませんし、レイプされたり、家族が目の前で殺されたりしています。そのため、今より良い社会を構築していくことにすごく情熱があるわけです。

 

宣言文とは単なる文面ですので、それを実際の行動力として適用し、アフリカの青年たちにこのコンセプトを理解させ、活性化する(した)というのは、本当に価値のある生産物だと思っています。

 

彼らがコミュニティをこれからもどんどん広げて、学校にこれからもクラブを作ったり、人権を現実化してより安心で安全に暮らせる国にしてくれたら、と願います。

 

ユース・フォー・ヒューマンライツ インターナショナルのさらに詳しい情報は

www.youthforhumanrights.jp

 

 

 

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